この論文の目的は、二十世紀初頭に舞踊の世界を席巻したセルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスが一九一二年に上演した《牧神の午後》における衣裳とコレオグラフィーの芸術的源泉とは何であったのかという課題を検討し、そこからモダニズムにつながるひとつの道筋を見定めようとするものである。そこで、この作品が持つ古典古代と近代性という二つの問題に触れ、当時の時代性を把握していくこととする。
近年では、《牧神の午後》における衣裳や美術、振り付けは、古代ギリシアの壺絵から発想されたという先行研究が有力視され、現在まで無批判に認められてきた。しかし壺絵に描かれた神や女性の風貌は、《牧神の午後》の牧神やニンフの表現様式と明らかに異なる。本論ではアルカイック時代の《アクロポリスのコレーたち》を取り上げ、《牧神の午後》における衣裳とコレオグラフィーとの比較分析を行っていき、異なる時代の二つの作品の関連を考察していく。そして、ロシアの美術雑誌「芸術世界」に携わっていたディアギレフ、レオン・バクストらの芸術家達および、ロシアの知識人達が古代ギリシアへなぜ心酔したのかという背景とともに、当時の全ヨーロッパが熱望した古代ギリシア芸術の意義は何だったのかを探っていくこととする。
また、大著『ディアギレフのバレエ・リュス』においてリン・ガラフォラは、《牧神の午後》の浮彫りのような特徴的な動きに関して、メイエルホリドの浅浮彫りのような「不動演劇」との関係性を言及している。本論はこの観点にも着目して、ガラフォラの主張する研究の不十分な箇所を補足していくこととする。
序
第一章 マラルメの『半獣神の午後』
第一節 フランスの文学と音楽の動向
一―一―一 激動の時代と「新しさ」の模索
一―一―二 文学の動向
一―一―三 音楽の動向
第二節 マラルメの『半獣神の午後』
一―二―一 『半獣神の午後』の精練
一―二―二 『半獣神の午後』の特質
一―二―三 『半獣神の午後』の概要
一―二―四 『半獣神の午後』の主題
第二章 バレエ・リュス《牧神の午後》
第一節《牧神の午後》における衣裳表現と振り付け
二―一―一 《牧神の午後》の概要
二―一―二 ニンフの衣裳
二―一―三 伝統への別離
二―一―四 アンフォラの壺
第二節《牧神の午後》の振り付けと二次元的舞台
二―二―一 舞台美術と照明
二―二―一―一 舞台美術
二―二―一―二 舞台照明の効果
二―二―二 バクストの主導
二―二―三 「芸術世界」とバクスト
第三節《牧神の午後》と映像
二―三―一 機械的複製
第三章 古代ギリシアへの熱望
第一節 《牧神の午後》と古代ギリシア作品との比較検証
三―一―一 《古代の恐怖》における芸術的源泉
三―一―二 《アクロポリスのコレー》の着装表現
三―一―二―一 《牧神の午後》と《アクロポリスのコレー》の関連性
三―一―二―二 《ヘリーン・デ・スパルテ》との関係
三―一―二―三 《巨人を倒す女神》と《神々の集会》
三―一―二―四 《ヒッポリトュゥス》
第二節 イサドラ・ダンカン
三―二―一 ダンカンの舞踊思想とダンス
三―二―二 《牧神の午後》とダンカンとの比較
第三節 ロシア人と古代ギリシア
三―三―一 ロシア知識人のギリシア熱
三―三―二 バクストのギリシア熱
第四章 メイエルホリドの不動劇との関連性
四―一 メイエルホリドの不動劇《タンタジールの死》
四―二 バクストとメイエルホリドとの仕事
四―三 メイエルホリドの不動劇《ヘッダ・ガブラー》
四―四 メイエルホリドの不動劇《修道女ベアトリーチェ》
四―五 《牧神の午後》における振り付けと
《修道女ベアトリーチェ》の不動劇との関連性
四―六 抽象バレエ《トリアディック・バレエ》
結論
アドルフ・ド・マイヤー《牧神の午後 大ニンフの後ろ姿》1914年 写真(複製)オルセー美術館 図版出典・オルセー美術館編『牧神の午後 マラルメ・ドビュッシー・ニジンスキー』柏倉康夫訳、平凡社、1994 P68
手島 由記子