本論は、ダン・グレアム(Dan Graham、1942年アメリカ合衆国イリノイ州生まれ)の作品群に関する研究論文である。グレアムは1964年に画廊を共同で設立し、翌65年に作家活動を開始した。本論を貫くのは、芸術作品において扱われる「時間」の問題、あるいは他者との緊張的な関係にある「主体」の問題である。これらをめぐる議論が最終的には、歴史や記憶をめぐる問題へと、グレアムの作品群、あるいは理論的テキストを軸として展開していく。
第1章においては、グレアムが1965年より制作を開始した「雑誌作品」および、写真作品を主に取り上げる。雑誌作品は、既刊の雑誌の紙面上に掲載される形で発表されていた。これらの作品の大きな特徴は、それ自体でその形態を決定することが許されず、それらが掲載されるそのつどの雑誌のフォーマットに影響を受けながら、他律的にその形態を形成されることであった。つまりそれらは、そのつどの諸条件によって「外在的に」規定される性格を与えられていたのである。これはモダニズムの観念、すなわち芸術作品は美的な「内的自律」を果たすべきであるとする観念を批判的に乗り越え、互いに異質な諸項の間の関係性をめぐる問題へと、視野を広げるものである。また、1枚1枚がフレームによって区切られたまま不連続的に継起するE・マイブリッジの連続写真と、同様のシリアルな形式をもつグレアムのイメージ構成との時間論的な接点を、グレアム自身によるマイブリッジ論などを参照しながら見出していく。
第2章においては、主体が相互に干渉し合い、相手を観察すると同時に自分もまた観察される、といった緊張的な心身の力学が扱われる。あるいはまた、主従が反転される契機をはらんだ、動態的な権力関係という主題を、グレアムのフィルム・パフォーマンス作品などのうちに読み込んだ。そして複数人の観客を組み入れたパフォーマンス作品などを論じながら、集団という社会的公共空間へと外在化され、そうしたネットワークにおいて他者との関係を取りもつ自己の姿を記述した。
第3章では、時間的な「ずれ」の構造を組み入れたヴィデオ・インスタレーションを、自己反省を可能にする仕組みとして記述し、ハーフミラーを素材とした建築的彫刻「パヴィリオン」へと論を展開する。たとえばヴィデオ・カメラに捉えられた鑑賞者の像が、8秒遅れでヴィデオ・モニターに投影される場合、その鑑賞者は8秒前の自己の姿を、モニター内に見ることとなる。切断的・不連続的な「距離」を隔てた過去が、現在において回帰する状況は、「いま・ここ」という自己の閉域を相対化し、時間の変化という外部条件に従属する存在として、自己を「反省的に」捉え直すことを可能にする。そして反省性をもたらすこの時間的な差異の構造を、「パヴィリオン」のハーフミラーの二面性、つまり外光の時間的変化に伴って鏡面性/透過性をたえず反転させるような性格へと接続させた。そしてグレアムがW・ベンヤミンを参照しながら記述したテキスト等を参照しながら、(歴史的)過去をめぐる問題を扱う彼の身振りについて、それまでに述べた時間論的な記述を踏まえながら考察した。
グレアムの作品群の根底にある意図とは、過去を忘却し「新しさ」によって裏付けられた現在のモードへと単に置き換えることでも、現在の価値意識に回収し得るように歪曲された形で過去を引用することでもない。グレアムの諸作品を通底するのはむしろ、「現在」から距離的に隔てられた切断面として、異質な「過去」を異質なものとして概念化する試みである。「自己」と「他者」、あるいは「現在」と「過去」とを互いに外在するものとして、すなわち「ずれ」や隔たりによって隔絶された通約不可能な諸項として表現する構造が、グレアムの諸作品を通底する性格といえる。「現在」において「過去」的なものを切断的に扱うことで、この現在を異貌化すること。それは歴史的・時間的主体として現在に生きる自己を、反省的に受け取りなおす身振りとなるだろう。
勝俣 涼