武蔵野美術大学 造形学部卒業制作 大学院修了制作 優秀作品展

絶望、そして無常、最後には花を ータナトス=0度の時代から旅立つアート

豊田 有里 芸術文化学科

論文
紙、くるみ製本
210×148

現代はタナトスへと向かう時代だ。そこここに、偽物の死が、生きながらの仮死、つまり0度の死が、蔓延している。
けれども、アートは逸脱する。
生の「偽装された死」の蔓延する日常の外へ。
本論文では、冨井大裕、宮永愛子、塩田千春という、三名の現代作家を取り上げる。
冨井大裕は、既製品を中心に身近なものを素材とし、「配置」のみによって形作られた「眼差し」の彫刻を提示することで、私たちの日常における事物へのそれが、いかに硬直したものであるのかを明らかにする。
宮永愛子は、物体の自然な性質を積極的に逆利用して、哀切な時間感覚を人工的に作り出す舞台を計画する。普段何気なく生きる日常の時間を、私たちがいかに愛していないか、ということに気づかせるために。
塩田千春は、私的な感覚を彷彿とさせる事物を、痛ましさをもって晒し出すことで、あえて、居心地の悪さ、不在性を作り出す。観客はそこで、作品と共犯した「自己の、アイデンティティ崩壊」を起こす者の状況をなぞるよう、仕向けられるのだ。
三者は、日常感覚を切り口とし、生のニヒルな状況を、ニヒルなままで、さらに、そこに救いもある、という両義的演劇の場へ引きずり出し、あえて映し出す。
そして、観客は、それらを「見る」という行為でもって、「作品」という嘗ての生の痕跡を前に、「どうしようもない私」を差しだすこととなる。この時、無常の生に、花が咲く。

目次
第一章 近くて遙かなる場所へ -生の喪失を救済するために
 ■タナトス=0度の時代へ手向ける、アートの花束
 ■アート、この、喪の花束 

第二章 手と目の交換、あるいは「物」をめぐる劇中劇 -冨井大裕の彫刻
 ■制度を計る目を、宙づりにする物たち
 ■対話劇風の劇中劇—擬人化された「物」が、自己否定する舞台で
 ■「物」は生け贄、そして日常は浄化される-「ゴールドフィンガー」の場合
 ■悲劇は、誰を救うのか?そのルールとパロディ

第三章 時間のv生成について -宮永愛子の、「魅せられて」芝居仕立て
 ■相似形の地図のごとく-時間が崩れ落ちる時代の、記憶装置
 ■生のリズムを模しながら-「そらみみみそら」
 ■あたかも、哀切のための、舞台装置-「なかそら―空中空―」 

四章 不在と反転について -塩田千春の誘う、痛みへの旅
 ■「私」を纏うドレスのように -「不在との対話」
 ■喪失の糸が透けて、やがて日々の仮面は、、、 -「トラウマ/日常」
 ■失われた旅の、誰が旅人となりしか -「私たちの行方」 

終章 グリーフワークの後に ―喪には、花が映り、花には喪がうつる、それが、無常の勤め=アート
 ■私たち観客が、花を手向けると、何かが始まる
 ■喪の花を咲かせ、手向けよう

担当教員:新見 隆
現代がもつ、言いようのない閉塞感、それに対する透徹した眼差しを根にすえながら、
若手気鋭の美術家三人を、先鋭に分析した、意欲的評論。
文体に決然と顕われた、透明な詩情はまた無類であり、読むものは必ずや、
現代にも、ロマン主義の命脈が断たれていないことに、瞠目するとともに、定家や長明、あるいは西行のもっていた、
中世的諦念とそれを超えてゆく雄渾なる詩魂が、このようなかたちで新たに表明されることに、一筋の光を見いだすだろう。」