武蔵野美術大学 造形学部卒業制作 大学院修了制作 優秀作品展

ジャン=ミシェル・バスキアのアプロプリエーション ー同時代の芸術動向、文学、音楽との関連性についての考察ー

上村 夏実 造形理論・美術史コース

論文
シュア製本
297×210

本論文では、1980年代にニューヨークで活動した黒人の芸術家、ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat, 1960-1988)の作品に見られる様々なモチーフが“既存のイメージからの引用であることを理解し、彼のこうした表現方法を同時代のニューヨークで流行した芸術動向「シミュレーショニズム」の重要概念ないし方法である「アプロプリエーション」をキーワードに考察した。バスキアの作品には、初期から最晩年に至るまで「アプロプリエーション」の方法が用いられてきたことを確認することができ、その方法は同時代の芸術動向「シミュレーショニズム」、文学「ビート・ジェネレーション」、音楽「ヒップホップ・ミュージック」と深く関わり合いながら行われているようである。

1、芸術:「シミュレーショニズム」
80年代ニューヨーク美術の重要な芸術動向「シミュレーショニズム」は、代表的な作家にシェリー・レヴィン、マイク・ビドロ、バーバラ・クルーガーなどの名を挙げることができるが、ジャン=ミシェル・バスキアは、「アプロプリエーション」の方法を用いたそれらのシミュレーショニストたちとは特に交流がなかったし、むしろ、「シミュレーショニズム」とほぼ同時期にニューヨークで起こっていたもう一つの芸術動向である「ニューペインティング」の芸術家としてしばしば理解されてきた。しかし、彼の作品に描かれるモチーフが様々な既存のイメージを利用しているという事実は、例えば彼の最晩年の最も重要な作品のひとつである1987年の《ペガサス》に描かれるモチーフがアニメキャラクターやヘンリー・ドレイファスの『シンボルの原典』からのイメージの引用であり、またその画面の構図自体がジャン・デュビュッフェの1952年の作品《風景》からの借用であることに確認することができるのだが、これは決して「シミュレーショニズム」の芸術と無関係なものではないだろう。シミュレーショニストたちの「アプロプリエーション」には、「カットアップ」、「サンプリング」、「リミックス」という三つの特徴を見ることができ、それらの要素はバスキアの作品においても確認することができた。しかしながら、シミュレーショニストたちがこうした方法を用いるとき、そこにはジャン・ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』を理論的典拠とした芸術の「オリジナル」と「コピー」の問題に関する主張を見ることができたのに対し、バスキアのそれにはそうした主張を確認することはできず、彼を簡単にシミュレーショニズムの芸術家として論じることはできない。

2、文学:「ビート・ジェネレーション」
80年代のシミュレーショニストたちが用いた「カットアップ」という方法は、60年代のアメリカで流行したビート・ジェネレーション文学の代表的な作家、ウィリアム・バロウズが自身の小説に用いた方法に似ていたことから名付けられたが、シミュレーショニストたちが行ったのは既存のイメージの「カットアップ」であり、言語を用いた表現は見られない。しかし、バスキアの「アプロプリエーション」には、例えば1983年の《ホルン奏者達》にみるように、単語やフレーズの「カットアップ」を確認することができ、そこにビート文学との関係性を見ないわけにはいかないだろう。事実、バスキアはあるインタビューにおいて、最も好きな小説家にバロウズの名を挙げているし*1、両者と交流があったビート時代の代表的な詩人ジョン・ジョルノはバスキアがバロウズを敬愛していたことを述べ、彼の作品にバロウズの強い影響が見て取れることを指摘している*2。バロウズが「カットアップ」の方法を用いた時、それは単語を文章から解放し、その単語にもともと与えられていた意味とは別の意味で理解することを目的としていたが、バスキアの作品に表わされる単語の「カットアップ」もほとんどそれと近い内容を達成していると考えられる。また、バロウズは「カットアップ」は人間の現実認識の有様を表現するものだと考えていたが、これにおいてもバスキアの制作方法と合致する点がみられた。バロウズのいう“人間の現実認識”とは、例えば、人は音楽を聴きながら本を読んだり、また新聞を読んだりする時に、もしかしたらいくつかの記事を一緒に流し読みしたりしていて、複数のストーリーや情報の流れを同時に追っているかもしれないということである。バスキアはいつもテレビをみたり、音楽を聴いたりしながら、雑誌や本を広げ、それらから得た情報を作品の中に取り入れたという。こうしたバスキアの、いわば“ながら作業”とも言うべき制作方法は確かにバロウズの主張する「カットアップ」の持つ効果と一致するものであろう。しかし、バロウズの「カットアップ」が計画的・計算的に行われたのに対し、バスキアのそれは即興的・・・であったということには注意が必要である。

3、音楽:「ヒップホップ・ミュージック」
「アプロプリエーション」の方法を説明する「カットアップ」、「サンプリング」、「リミックス」とは、もともと音楽用語であり、1970年代に登場する「ハウス・ミュージック」ないし「ヒップホップ・ミュージック」に用いられた技法を説明する言葉である。これらは確かに、シミュレーショニストたちの用いた方法を説明するに有効な用語ではあるが、彼らがそうした音楽を意識してこの方法を用いたわけでは全くない。しかし、バスキアのそれにおいては音楽との関係性を見ることができ、とりわけ「ヒップホップ・ミュージック」における「ラップ」と関係しているようである。「ラップ」の起源の一つには、「シグニファイング(もの騙り)」というアフリカン・アメリカンに伝統的に受け継がれる、ほのめかし、暗示、遠回しに言うことなどを意味する、間接的・婉曲的話法があると考えられている。「シグニファイング」はもともと、奴隷制下で黒人奴隷達が白人の主人に気づかれないように悪口を言うことから派生したというが、アフリカン・アメリカン研究の第一人者であるヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアによれば、こうした「シグニファイング」のふるまいの特徴には「改変を伴う反復」があるという*3。バスキアが「サンプリング」を行う時、シミュレーショニストたちのそれとは異なり、既存のイメージをそっくりそのままに用いるのではなく、いつも何らかの描き変えが行われており、またそれらのイメージにはしばしば間接的意味が含まれている。例えば、1988年に描かれた《無題》には、“OREO”という言葉が見られるが、これは有名な菓子であるバニラクリーム入りチョコレートクッキーの中央部に見られるロゴイメージの一部を借用した物である。これは一見単にクッキーの形を描いただけの物のようにも思われるが、“OREO”という言葉が黒人のスラングではそのクッキーの見た目から「アングロサクソン文化に憧れるアフリカン・アメリカン」を意味する言葉として用いられていたことを思い起こさせるものであり、この言葉を作品に利用していることは、晩年“バスキアは白人ギャラリストたちにしっぽを振るペットになった”などと批判されていたことをもイメージさせるのである。こうして見てきたように、ジャン=ミシェル・バスキアの「アプロプリエーション」は、同時代の芸術、文学、音楽と様々に関係性を持つものとして説明することが出来る。とりわけ、「ヒップホップ・ミュージック」にみる「シグニファイング」の特徴とバスキアの「アプロプリエーション」が類似していることは興味深い。彼の「アプロプリエーション」は、ここで確認した三つの全てのジャンルと関わり合うものであり、そのどれか一つを取り上げて、その中にバスキアを位置付けることはできないものと思われる。では、一体、ジャン=ミシェル・バスキアの「アプロプリエーション」とは何なのか。言ってみれば、バスキアの絵画は、「もの騙り」の絵画である。「アプロプリエーション」のなかに、“即興性”と“改変を伴う反復”という二つの特徴を持つ彼の作品は、確かにアフリカン・アメリカンの「もの騙り」の文化の中で理解することができ、もしかすると、バスキアの作品は彼のアイデンティティそのものを表わすものであったのかもしれない。しかし、“即興性”と“改変を伴う反復”というこれらの特徴のどちらもが、メディアの複製可能性に抗う特性であるということは決して見逃すべきではなく、こうした事実を彼が活躍した1980年代の時代背景と結びつけて考える必要もまたあるだろう。

*1 Jean-Michel Basquiat interviewed by Becky Johnston and Tamara Davis Beverly Hills, California, 1985. in Dieter Buchhart, and Sam Keller ed.,Basquiat, exh. cat. The Museum of Modern Art City of Paris, Fondation Beyeler Riehen, Basel, 2010., p.5.
*2 映画『バスキアのすべて』(2010年、アメリカ、93分、監督:タムラ・ディビス)、本編ジョン・ジョルノに対するインタビューより。
*3 ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア著、松本昇・清水菜穂監修『シグニファイング・モンキー —もの騙る猿/アフロ・アメリカン文学批評理論—』、南雲 堂フェニックス、2009年、84-93項。

担当教員:田中 正之
1980年代のアメリカ美術に焦点をあて、当時を代表する画家ジャン=ミシェル・バスキアを取り上げた上村の論文は、今後の80年代美術研究やバスキア研究に十分貢献しうる意欲的なものである。アプロプリエーションという方法を詳細に分析した点はとくに高く評価でき、それを技法的な分析に終わらせず、当時の社会文化的文脈、アフリカ系アメリカ人の表現の歴史などとも結びつけ、バスキア作品のもつ意味を多角的に浮き彫りにした。